すぐに、退職・転職を考えてしまう「あなた」のためのカウンセリング!
心理カウンセリング/トラウマ治療(神奈川県横浜市)
IAP横浜相談室
【主な実施場所】(関内駅周辺の施設に変更になる場合があります)
〒231-0048 神奈川県横浜市中区蓬莱町2丁目4-7 澤田聖徳ビル
大学では、苦しんでいる人々がさらに苦しみ続けるような社会に疑問を感じ、社会福祉学を専攻しました。
社会に役立ちたい、困っている人を支える仕事をしたい、そう思い始めたのです。
大学の実習で児童相談所に行ったとき、ある一冊の本に出会いました。
その本のタイトルは『日本一醜い親への手紙』。
実際に虐待を受けた人々が、その体験をリアルに綴ったものでした。読み進めるにつれて、胸がざわめき、心臓がドキドキと高鳴り、息が苦しくなってきました。
まるで、自分がその文章を書いた人と同じ体験をしているかのように感じたのです。
「どうしてだろう。私は虐待なんて受けたことがないはずなのに…」
そう自問しながら、なぜか引き込まれるようにその本を読み終え、実習を終えました。
しかしその違和感が心の奥に残り続け、頭から離れなくなりました。
さらに別の実習で「アルコール依存症のリハビリ施設」に行くことになりました。
依存症と虐待がどう関係するのかはよくわからなかったのですが、「精神科医療に関わるのであれば、依存症について学ぶことも大切だ」という実習指導の先生のアドバイスで、そこでの実習が決まりました。
施設への事前訪問の日、現場の実習指導スタッフから「児童相談所との関係を考えて、この実習に来たのですか?」と尋ねられました。
私はそのような意図はなかったので「いいえ、そうではありません」と答えたところ、「この施設で学べることがあると思いますよ」と言われました。
事前学習としてレポートを書くことになり、そこで『援助者のためのアルコール・薬物依存症Q&A』という本を読みました。
そこには依存症に関する様々な事柄が書かれていましたが、特に「アダルトチルドレン」や「共依存」という言葉に強く惹かれました。
「これは自分のことではないか…?」そんな考えがよぎり、レポートにもこの二つの言葉を中心に書きました。
さらに、斎藤学先生の『アダルトチルドレンと家族』という本も読み進めると、「やっぱり自分のことが書かれているのではないか?」という気持ちになりました。
一方で、自分はそれほどひどい家庭環境で育ってきたわけではないとも思い、どう感じて良いかわからない状態で実習に参加しました。
そんな私を見て、実習指導スタッフが「もしあなたがアダルトチルドレンだと思うのなら、一度カウンセリングを受けて、回復に向けて取り組んでみるのもいいかもしれません」とアドバイスをくれました。
この実習での読書は、自分の経験を振り返り、心の中にある問題を見つめ直すきっかけになりました。しかし同時に、「この問題を否認したい」と感じる自分がいることにも気づきました。
実習スタッフに紹介してもらい、依存症やアダルトチルドレンに対応しているカウンセリングルームに行くことにしました。
自分の問題を見つめ、乗り越えなければ支援者として社会に出ることができないのではないか、そんな気持ちがありました。
いざカウンセリングルームに申し込んでカウンセリングを受けてみると、思っていた以上に心がえぐられるような思いをしました。
色々なことを話したと思います。自分が他者を支援することを通じて、心の満たされなさから目をそらしていたこと、自分の「共依存性」に気づいていたことも話しました。
そして、その共依存を克服し、クライアントのための本物のソーシャルワーカーになりたいと伝えたと思います。
しかし、カウンセラーから「社会福祉を選んだのは、勘違いしちゃったね」という言葉が出てきたとき、私はその言葉に反応することができませんでした。
カウンセリングを終えた後も、胸の中に何かもやもやとしたものが残りました。「なんだろう?」と思いながら過ごしていると、そのもやもやは日に日に大きくなり、やがて「カウンセラーへのわだかまり」という感覚になりました。
「勘違いしちゃったね」という言葉に引っかかっていたことに気づいたのです。
2回目のカウンセリングで、そのことを率直に伝えたところ、カウンセラーから「覚えていない」という言葉が返ってきました。
愕然としたのを覚えています。自分の問題の否認や、認知の歪みがあったのかもしれませんが、カウンセラーが自身を正当化するための弁明が延々と続いたように感じました。
「まず私自身の回復が必要である」という話だったように思いますが、私も「(カウンセラーが)言っていることは分かっている。
そのうえで回復しソーシャルワーカーになりたいと言っているのです」と感情的になってしまったのを覚えています。
最後にカウンセラーから「あなたに与えたのはわだかまりどころではない、心をえぐったような傷になってしまった」という言葉をもらいました。この言葉は私にとって救いでした。
アルコール依存症の方が回復のために通う「アルコホリック・アノニマス(AA)」の方法に倣った「エモーショナル・アノニマス(EA)」という自助グループが各地にあることを知り、私もそこに通おうと思いました。
こうして、初めてのカウンセリングは2回で終わりました。
それから数年、十数年が経ち、私はずっとそのカウンセラーに対して「なぜわかってくれなかったのか」という怒りとわだかまりを抱えていました。
しかし、今では自分もカウンセラーとなり、カウンセリングを適切に行うことの難しさや、クライアントの役に立てないことの辛さを実感しています。
あの時のカウンセラーも必死に私を支援しようとしてくれていたのだろうと、今では思っています。
その後、残りの大学生活の1年間は、大学の学生相談室に通いました。
社会人になってからは、電話でのカウンセリング、心療内科に通院していた際には付属のカウンセリングルームも利用しました。
仕事を辞めざるを得なくなったときには、通院先のカウンセラーも変えました。
そして最後にたどり着いたのが、現在もスーパービジョンを依頼している泉園子先生です。
こうして、私は「ドクターショッピング」と「カウンセラーショッピング」をしてきたことになりますが、振り返るとそれも必要な過程だったと感じています。
その後、病院のソーシャルワーカーとして働いていた私は、ある日、うつ状態がひどくなり、休職を余儀なくされました。
このままでは生きていけないと思い、本格的にトラウマ治療に取り組む決心をしました。
そして思い浮かんだのが、以前読んだ『アダルトチルドレンと家族』の著者、斎藤学先生でした。
当時、先生はトラウマ専門の医療機関「さいとうクリニック」を開業しており、ネットで調べるとトラウマ治療の先端を担う専門医としての活動が数々紹介されていました。
「ここなら、自分の痛みと向き合えるかもしれない」
希望を抱きながら、まずはIFFが主催する木曜ミーティングに参加しました
。医療というよりもワークショップのような形式で、有料ではありましたが、その第一回目に参加できたのはとても幸運だったと思います。
私を含めた3組ほどのクライアントが少人数で、斎藤先生とゆっくり話す時間が取れたのです。
斎藤先生との個人面談は、20分で3万円というもので手の届かないものだったので、またとない機会でした。
自分が抱えている問題や家族での出来事を話しました。
家族関係の問題を解説してもらったり、自分が気づいていない心の奥底の問題を指摘してもらえるのではないかと期待していました。
しかし、先生が勧めたのは意外にも「認知療法」でした。
「認知療法練習帳」という本に沿って、まず自分の思考や感情を書き出す課題が出されました。
最初は拍子抜けしたような気持ちもありましたが、その方法に沿って、心の整理を少しずつ進めていきました。
1章ずつ課題をこなしていけばいいと思い、毎回その章までの内容を表に埋めて提出していましたが、4回目のセッションで先生から「なぜ最後まで埋まっていないのか」と指摘されました。
前回までの課題はクリアしていたと思い伝えましたが、「本当に回復を望むのなら、この本を何度も読み直して最後まで取り組むべきだ」と厳しい言葉が返ってきました。
少し傷つきましたが、その時も先生の冷たい言葉があまりにストレートで、「この人はとても性格が厳しいんだ」と思わずにはいられませんでした。
その後、IFFの講座で、他のカウンセラーが認知療法のグループワークを始めるという情報を得て、斎藤先生のワークショップを離れ、そのグループワークに参加することにしました。
斎藤先生にもその旨を伝えると、「決して無理に勧めるわけではないが、さいとうクリニックのデイナイトケアにも参加してみるといいかもしれない」と一言をいただきました。
その言葉は、今振り返れば私がトラウマ治療に本格的に向き合うきっかけを与えてくれたように思います。
クリニックのデイナイトケアは、私にとって大きな支えとなりました。
プログラム表を受け取り、そこには一つの時間帯に3つほどのグループセラピーが用意されており、どのプログラムに参加するかは自分で自由に選べるようになっていました。
その柔軟な体制が私にはとても心地よく、魅力的に感じたのを覚えています。
デイナイトケアのプログラムには、オープンミーティングやアロマテラピー、フラワーエッセンス、交流分析、認知行動療法、さらには茶道や歌、ハコミセラピーなど多岐にわたるものでした
。オープンミーティングでは、他のメンバーが自分の体験を語り、私も少しずつ心を開いて話せるようになりました。
他の人の話に耳を傾けながら、自分が一人ではないことに少しずつ気づいていきました。
しかし、感情の解離が強く、最初の頃はただその場にいるだけで満足していました。
それでも、その場に身を置き、自然に受け入れられる環境が私にとっては心を支えてくれるものとなっていました。
ほかにも、図書室での読書、ティールームでの雑談、過去の斎藤先生の講義ビデオの聴講など、心を癒し、自分を見つめ直す時間が与えられたのです。
毎日行われる「斎藤ミーティング」も、デイナイトケアの中心的なプログラムでした。
メンバーが順に自分の話をし、先生がその話を受けて自由に話し、質疑応答に移る流れでした。
その時々に斎藤先生が発する分析的な言葉やアドバイスには、「なるほど」と納得する部分も多くありました。
スタッフたちは「このミーティングへの参加が回復の肝になる」と言っていましたが、私はそれよりも様々な活動を一緒に行うことが自分にとっては大切だと感じていました。
デイナイトケアと並行して、NPO法人JUSTの会員にもなり、JUSTのミーティングやイベントにも積極的に参加しました。
JUSTでは、仲間同士が支え合う「ピアサポート」を大切にしており、私も学生時代に一度JUSTの電話相談を受けたことがありました。
そのとき、「専門家には話しにくいことも受け止めてもらえた」という安心感を得たのです。
JUSTでは、私も電話相談を受ける側にまわり、カウンセリングボランティアをする機会をもらいました。
「あなたのような人に相談できてよかった」と言ってくれた仲間の言葉が心に残り、ピアサポートの力を実感しました。
JUSTでの活動は、私にとって非常に充実したもので、年に数回行われるJUST講座やデイナイトケアでの土曜セミナーにも参加し、精神医学やトラウマ、依存症に関する知識を深める機会がありました。
様々な経験や知識が支援者としての視野を広げると同時に、自分が本当に必要としていた回復の道を確信させてくれたのです。
その講座やセミナーに講師として登壇されていたのが、大嶋信頼先生でした。
当時の私には馴染みのなかった「ミラーニューロン」のや、カウンセリングの肝ともいえる「リフレーミング」を学び、
「こんなことがあるのか」「こんな考え方ができるのか」と驚きとともに、新たな発見とインスピレーションを得ました。
当時の仲間とも話していたのですが、大嶋先生は次元が違う。もっと大嶋先生の話を聞きたい。
そして、個別のカウンセリングでトラウマ治療に取り組むのであれば、大嶋先生しかいないのではないか、と思うようになっていきました。
2008年からはインサイトカウンセリングで大嶋信頼先生や泉園子先生によるトラウマ治療の心理療法を受け始めました。
FAP療法を中心としたカウンセリングでしたが、一番初めに変化を感じたのは、FAP療法受けて3回目のことでした。
職場で上司から強く叱責されても私の心がびくともしなかったのです。
それまでは、すぐに頭が真っ白になり何もできずにおどおどしていたのですが、あれ?全く動揺することがなく奇跡が起きたようでした。
しかし、その効果は1週間と続かず、元に戻ってしまいました。
それから、話を聞いてもらいながらFAP療法を受けるセッションが続きました。
しかし、職場では思うように働くことができず、転職や休職を経験しました。なんとか復帰できたと思っても、職場の環境に馴染めず、再び退職せざるを得ないこともありました。
自分自身の変化は感じていたものの、「FAP療法をいくら受けてもこれ以上良くならないのでは?」 と不安になることもありました。「もう諦めるべきか?」「他の治療機関に行った方が良いのでは?」と何度も思いました。
そんな時、今ではFAP療法 version χ になっている**「光に聞く(一般的には心に聞く)」** を試していました。
光の答えは、「大嶋先生は真実を追求してFAP療法を開発した。お前も真実にたどり着きたいだろう」 というものでした。それは、FAP療法を続けることを後押しする言葉でもありました。
辛い思いをしながらも、光の言葉に従い、インサイトカウンセリングに通い続けました。
しかし、自分らしく働くことが難しく、試行錯誤をしていた時期に、 主治医から 「負担の少ない働き方を考えてみてはどうか?」 という助言を受けました。
正直、ショックでした。「ソーシャルワーカーとして社会を変えていきたい」という思いが強かったからです。 自分に合った働き方を考えることは大事だと分かりつつも、どの道を選ぶべきか迷いました。
そんな思いを抱えながら、インサイトの泉先生のカウンセリングでそのことを話しました。
すると、泉先生は 「伊藤さんは、自分のやりたいことをして生きていく人です」 と言いました。
私は「主治医の意向もあるし、自分の気持ちも揺れています」と伝えると、先生は 「大切なのは、どの道が正しいかではなく、自分の望む生き方を選ぶことです」 と背中を押してくれました。
正直、安定した働き方を選ぶのも一つの道かもしれないと思っていました。 しかし、泉先生の言葉を聞いて、「もう一度ソーシャルワーカーとしての生き方を諦めずに挑戦しよう」と決意しました。
また、後述のようにカウンセリングの勉強をしていたのですが、「勉強がひと段落したら独立(カウンセラーとして)を目指しましょう」と後押しの言葉をいただきました。
どん底にいた私にここまでの言葉をかけることができる人がいるのかと信じられませんでした。
世界のすべてがクライエントの敵にまわってもカウンセラーだけはクライエントを信じ続けるのだという泉先生のカウンセラーとしての態度が現れていたと思います。
インサイトカウンセリングで紹介された新宿溝口クリニックでは、オーソモレキュラー療法(分子栄養医学)を取り入れた治療も行われており、トラウマの影響と思われるうつ、不安、パニック症状を克服することができました。
その後、ビーレインクリニックにて脳画像や血糖値、ホルモンレベルなどの精密な検査を重ね、必要に応じた栄養指導や睡眠指導も受けながら、心と体の健康を整えることに努めました。
私の心の傷は、心だけの問題ではありませんでした。
人間関係のしんどさや、安心できない生活環境——それらが心の深い部分にまで影響していたのだと思います。
だからこそ私は、心の問題を“個人の中”だけで解決するのではなく、生活や人間関係とつながった支援が必要だと感じ、ソーシャルワークの道に進みました。
しかし、現場で出会うクライアントの苦しみには、それだけでは届かないものがあることにも気づいていきました。
「もっと深く、心の奥に届く方法が必要だ」という思いが強くなり、スーパービジョンを受けながら、心理療法の学びに本格的に踏み出しました。
心の深い苦しみに触れるには、内面への理解と、それに応える技術が必要だ。
その技術を学び続けることが、私のトラウマ治療における信念です。
2015年には横浜市関内で心理カウンセリングを中心とした相談室「IAP横相談室」を開業しました。
子どもの頃に自分や家族が必要としていた「安心・安全な生活」を、社会の一員として提供できる存在になりたいという思いが、活動の原動力になっていました。
社会福祉の現場や地域社会での活動を通して、クライアントが安心して日々を過ごせるように支援すること、地域全体で支え合う仕組みをつくることに取り組み続けています。
もちろん、壁にぶつかることも数えきれないほどありました。
私の人生は挫折や苦しみの連続であり、そのたびに自分一人では立ち直れず、支えてくれた先生方や仲間の存在が大きな支えとなりました。
今でも時には不安に押しつぶされそうになったり、挫折感にさいなまれたりすることもあります。
しかし、以前のような「不適応」に陥ったとしても、そこから立ち直り、前に進むことができる。
こうした経験を通じて、「自分は導かれている」という感覚を抱けるようになり、それを信じられるようになりました。
私自身、未熟な自分を嫌になることもありますが、スーパーバイザーや同じ道を歩む仲間の教えを糧に、クライアントとともに成長し、共に回復の道を歩んでいます。
ここまで長い道のりでしたが、この物語が少しでも誰かの参考になればと願っています。
最後まで読んでいただき、私の体験を理解しようとしてくださったことに心から感謝しています。
これからの道を一緒に歩む方々との出会いが、新たな支えとなり、未来へとつながっていくことを信じています。